坂川さんとの出会いと想い出

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AdobeのIllustratorで坂川さんのイラストを作成。バックの色は坂川さんの好きそうな色にした。

8月21日に坂川さんがお亡くなりになった、というメールを坂川事務所からいただいたのだけれども、とてもなショックだった。つい2ヶ月前にFecebookのチャットで話したばかりだったからだ。

僕のデザイナー人生において大きな影響を与えてくれた人は、博報堂に出向していた時に資生堂の広告のアートディレクターをしていた鬼の安田さん(当時厳しいので有名だったのでそう呼ばれていた)、そしてフリーランスの時に雑誌「Switch」のデザインを一緒にさせていただいた時にアートディレクターだった坂川さんだ。

当時は表紙と広告以外はモノクロページだった。

初めての出会いは33年くらい前、僕がまだ20代後半の時の話だ。坂川さんは当時広尾にあった、株式会社ストレンジフルーツという会社に在籍していた。知り合いのカメラマン(Switchの撮影をしていた)の依田さん(一昨年に亡くなった)が「Switch」という雑誌を毎月数十ページ、デザインしてくれる人を探していると言われて、依田さんとストレンジフルーツという会社に一緒に行って、初めて坂川さんを紹介された。

当時は坂川さんが一人で「Switch」を一冊丸ごとデザインしていたので、他の仕事がなかなかできなく、徹夜も続いて厳しいという状況だった。毎月30ページくらいデザインさせていただき、英語のタイトルと日本語の本文が融合するデザインがとても美しかった。要するに本文がタテ組なのにタイトル周りがヨコ組なのでデザインするのが難しいのだ。

英文をアクセントに使って白地を生かした坂川さんのデザインがとても綺麗で、大変勉強になった。僕も、もともとホワイトスペースをいかしたデザインが好きだったのと、綺麗な書体が好きだったので坂川さんが使用していた1冊ン万円もするモンセンの書体見本を当時、南青山にあった嶋田洋書に何冊も買いに行った。

同じ北海道出身ということもあり、話す時は自ずと北海道弁になってしまう。ご飯をご馳走になったり、飲みに連れて行ってもらったりと大変可愛がっていただいた。その当時の坂川さんは、すでに体重は98kgくらいあったと記憶している。

今でも記憶に残っているのは坂川さんから連絡が来て、「足を折ったから、紺谷くん原稿を取りに家に来てくれる。」と言うので坂川さんの家まで原稿を取りに行った時のことだ。当時、坂川さんは広尾の都営住宅に住んでいて坂川さんが言うには「ここは場所が良くて家賃が安いけど、倍率が高くなかなか入れないんだよね。」という話しを聞いたことと、確か部屋に二段ベットがあり、小学生の子供がいて紹介してくれたことだ。その子とは20代くらいの時に広尾の坂川事務所でも会っているが、今では独り立ちして下北沢で事務所を構えて装丁作家をしている。とても喜ばしい。

坂川事務所は、窓全面の景色が雅叙園の庭

その後、坂川さんはストレンジフルーツを辞め、独立して坂川事務所を設立した。目黒の雅叙園の庭が窓全面から見える素敵なオフィスに移った。何回かお邪魔したけれど窓から見える庭の景色とか、事務所の内装、机、置いてあるオブジェなどセンスがあり、こだわりがあったことが思い返される。その時に坂川事務所で会ったのが斎藤くんで僕と同じ歳のカメラマンだ。依田さん同様にSwitchのカメラマンでもある。3年くらいSwitchのデザインに携わった。その後、前田くんというアシスタントのデザイナーが坂川事務所に入り、僕の出番は少なくなった。

このあたりからバブルが到来し、とにかくカッコイイデザイン、そしてSwitch風の写真、Switch風のデザインでお願いします的な依頼が多く、坂川事務所で会ったカメラマンの斎藤くんと仕事を一緒にすることが多くなった。とにかくバブルと相まって仕事の依頼が多く、こなしきれない量の仕事を無理やりこなす日々を送っていた。

当時、「switch」風のデザインの依頼を受けて、カメラマンの依田さんや斎藤くんと組んで作成していた文化放送ブレーンの仕事。

その後、バブルが弾けて緩やかに仕事が減りMacが登場し、写植、版下からDTPへと時代は移り変わっていく。この頃になると仕事も減っていくので、雑誌、PR誌、パンフレット、カタログ、ポスター、チラシ、ブックカバー、会社案内、ステッカー等、印刷物の仕事なら何でもしていた。

坂川さんの影響でブックカバーのデザインも。

僕も広尾に近い恵比寿に事務所を構えていたので、広尾の商店街を歩いていると時々、坂川さんと出会うことがある。その度に声をかけてくれる。あの風貌なので遠くからでもすぐに発見することができる。「紺谷くん、元気か? 今何してるの? 仕事は大丈夫か? 広尾に事務所移ったから遊びに来いよ!」といった具合だ。繊細で根っから面倒見がよく、自分と関わった人は必ず気にかけてくれる。

8年くらい前にも、たまたま広尾商店街で坂川さんに出会った時には、 「紺谷くん、DTP得意だよな。InDesignもできる?」 「はい。使ってますけど。」 「じゃあ、ちょっと手伝ってくれるかな。」 「今度、打合せやるからいついつの何時に事務所に来てくれる?」 「わかりました。」 という会話がなされて、後日、事務所にお伺いすると「SHIBUYA SWITCH」という雑誌の打合せだった。「SWITCH」とSHIBUYA PUBLISHING & BOOKSELLERSがコラボして主宰した編集のワークショップで、募集した30名がいくつかのグループに分かれて渋谷の街の写真を撮り、取材して新しい雑誌を刊行するというものだった。

当時、ワークショップに参加した30名が渋谷を撮影・取材して出来上がった雑誌「SHIBUYA SWITCH」。

つい2、3年前のように思い返されるが、もう8年も経っている。歳を取ってくるとさすがに時間の流れが早く過ぎ去る。 その後も商店街で会った時は 「今、ギャラリーを作ってるから」とか 「これからの時代は紺谷くんもデザインよりも、自分を売って行かないとダメだぞ。オレは今BS放送で温泉の番組に出てるから見ろよ。」とか 今になって思うと坂川さんは、自分のやりたい事と時代の流れを考えて行動していたんだなと思う。

身体も志も大きな存在

いまだに坂川さんが亡くなったことが信じられないでいる。広尾の商店街を歩いていると、すぐに目につくあの風貌で向こうから歩いてくるのではないかと思ってしまう。

もし、僕が20代後半に坂川さんに出会ってなければどうなっていたんだろう? 

「SWITCH」をデザインしていなければどうなっていたんだろう? 

坂川さんと同じ北海道出身じゃなかったらどうなっていたんだろう?

と思う時がある。 人生において、こういった時々の出会いは1分違ってたり、通る道が違ってたら出会っていない。広尾で坂川さんに何回も出会うなんて、僕に取っては明らかに幸運でしかない。それだけ僕の人生にもデザインにも大きな影響を与えてくれた大事な先輩だった。

坂川さんのご冥福をお祈りしたいと思います。肉体は荼毘に伏されるましたが、坂川さんと共有した時間や教わったこと、吸収したこと、制作した作品は僕の中に生涯忘れることはないだろう。最後に坂川さん、ありがとう。そして自分の中にいる坂川さん、これからもよろしく。話したい時に話せなくなったのは寂しい限りですが、坂川さんと出会った皆さん、皆さんの中の坂川さんを忘れないでください。忘れない限り坂川さんがいつも存在しています。僕はそう思うので安心してお眠りください。

なんか取り止めのない文章になってしまいました。最後までお読みくださりありがとうございます。 

令和2年8月30日 紺谷宏明

 

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Posted by hiro